昭和45年、
人々が大阪万博に興じる中、
戦後最長と言われた「いざなぎ景気」が終わった。
3月には、「よど号ハイジャック事件」が勃発。
深刻化する公害問題、ゴミ問題とともに日本中に暗い影を落とした。
そんな停滞する雰囲気とは裏腹に、人々はテレビに熱中していた。
時は、プロ野球読売巨人軍の黄金時代。
前年、巨人軍はV5を達成し、その勢いは留まることを知らなかった。
皆、居間のテレビを囲み、長嶋、王らの活躍を見ては、日頃の憂さを晴らしていた。
その巨人軍人気に後押しされて、一つのテレビアニメ番組が登場した。
読売テレビ(日本テレビ)の
「
巨人の星
」
である。
努力と根性で巨人軍のエースにまで上り詰める主人公親子の姿を、
人々は自分たちに重ね合わせた。
そして、もう一度頑張らなければと思った。
「
巨人の星
」
は空前の大ヒットを記録し、
平均視聴率
26
%
というお化け番組に成長した。
その影で、ライバル局各社は、頭を抱えていた。
これ以上、
「
巨人の星
」
の独走を見過ごすわけにはいかなかった。
武田信敬、
そんな中、
フジテレビ編成局長
に就任した。
今でも伝説として語り継がれる、企画のプロ、フジテレビ番組の源流を作った男であった。
当時、フジテレビでは
「
巨人の星
」
と同時間帯の視聴率を争うため、同じスポ根もの、女空手を題材にした
「
紅い稲妻
」
(原作:上原正三)
の企画が進行していた。
武田
、
ダメ
だと思った。
同じスポ根ものでは
「
巨人の星
」
に勝てない。
新しいブームを作らなければならない。
武田
は密かに
「
巨人の星
」
に変わる、次のブームを模索し始めた。
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